年に数度会ううちに、これは重大な進行性のある病気と思いましたが病名を知らない私はでも、いつか直るようにも思ったり・・・ある日会って、ビックリしました。もう会話は交わされません。初めて病名を知りましたが、本人には今も伝えてません。
献身的な介護で発病以来、5年以上はもうなっています。
病気になる前いえ、もっともっと子どもの頃から従姉は5歳年上の憧れのお姉さんでした。私は戦後のどさくさ生まれで当時は、日本も親戚の家などで身内同士が居候するなどよくあることで、小学1年生から5年生までは従姉の家でお世話になっていました。
子どもの頃の5歳は、ものすご~く離れて感じ、私にとっての従姉は姉という反面、もう大人のような存在。どこに行くにもついて周り時には足手まといで、遊びの場所で泣く泣く帰された事もありました。どんどん、大人になってキレイになっていく従姉は本当に憧れでした。
とてもスポーツが得意で綺麗で従姉を崇拝する男性もたくさん・・・そんな場所にも私はくっついて行ってました。♪
私は小さく何にも出来ず怖がりで、何でもこなす従姉は本当に崇拝の存在。
子ども扱いだった私も、私が結婚した頃からは私のよき相談相手。また従姉からみても私は頼りになる存在になっていました。仕事のことなどはよく従姉にアドバイスを求められ、私は従姉が憧れの存在でしたが、従姉は私の読書好きなどが、親から見習いなさいと言われていて、「子どもをそういう風に躾けたかったのよ」といわれ、私は子どもを従姉のように活発に躾けたいと思っていたのです。
お互いにないところを補い合い、結婚してからは益々従姉にはよくしてもらいました。
女姉妹がいない私達は、実の姉妹のように思っていました。従姉のところに出かけると必ず、惣菜を買ってくれます。忙しい私が楽なように子どもの物から、旦那さんのお酒のあて、義母のお土産まで。義母に可愛がってもらえるようにと時々は義母への心づくしもしてくれました。
そんな大好きな従姉が倒れてもう、数年になります。
私は今までしてもらった以上に、従姉のところに通っては従姉の家族の側に寄り添います。従姉とは意思の疎通や会話が出来ません。それでも私の話し声、我が家のすったもんだ劇の話をすると笑みがこぼれます。私はその笑みの中にいつも、美しく憧れていた面影を感じています。
そして、昨年従姉家族にもう一つの試練~。
それは、従姉の長男が骨髄性白血病に見まわれてしまったことです。
でも幸い、ドナー提供者が3名も見つかり、適合した方の骨髄移植も無事終わり徐々に快方に向かっている事は大変ありがたいことです。
私は若い頃、献血をしていたのですが高血圧の薬を服用するようになり、献血は中止に

でも、今は治験参加で少し医療貢献です。でも治験データーが出てからも市場に薬品が使えるようになるまで、2年もかかるそうなのです。医療の進歩で少しでも難病の方が、良くなって欲しい道のりは遠いですね。
私は臓器提供ドナーカードに登録しました。
そのきっかけは、ホームステイしていたオーストラリアの学生さんのが所持していたからです。
残念なのは年齢とともに、頑丈な??身体も多少ガタが来て、ダンダン提供するところがなくなりそう・・・

なことです。
今日は
骨髄バンク提供のリンクを教えていただいたので~
アナタの善意を~
