私の中の「東京タワー」 オカンとボクと、時々、オトン・・・

ライラのママ

2007年09月19日 00:37

 今日は、地元の市民会館へ「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」鑑賞。
此処の市民会館には数ヶ月遅れだけど話題の映画がやってくるのでワザワザ都心まで出かける必要もなくありがたいわ。
 数週間前に前を通りがかり前売りチケット購入、その時に「60歳になっておられませんか?200円安くなりますよ」お陰で前売り+シニア割引で、800円で話題の映画が見れる年齢になったらしく・・・嬉しいような~うれしいような~微妙な年齢
 何ヶ月か前にリリー・フランキーさんをテレビで見かけ『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』を読んでみたいと言っていたら次男君が買ったばかりの本を先に廻してくれて、お客の少ない「オールド・タイム」 

と言う喫茶店で寛ぎながら2時間ばかりで読み終えた。
 小説にテレビドラマ、そして映画と何度か、この物語にふれながら暮らした時代と境遇が私の中の『東京タワー』に微妙に重なり懐かしく、そして少し哀しい。
子どもの頃の私は都会の中のボタ山??に埋もれていたような気がする。





 子ども時代育った大阪の工業地帯の大正区は木津川に面し、周りには大手の製粉工場などが乱立していた。当時は外国の船も往来し、また多分九州辺りから運ばれていた石炭やコークス置き場の管理人を伯父は任されていて、管理事務所は、ありがたいことに当時お風呂も備わっており、石炭やコークスで風呂を沸かしたり事務所の暖をとっていた。
石炭置き場は種類の違う大きさで分けられてまるで小さな山の大群のようで、愛犬と一緒に暗くなるまで山のてっ辺に上り興じた。
 伯父は真面目な人で、いくら管理事務所を任されているといっても、大きな石炭には手を出さず、いつもクズのコークスで暖をとっていた。
事務所の中は冬でも暖かくって、当時としては珍しく暖房の効いた生活だったと思う。
石炭置き場に出入りする人夫の小父さん達は人柄もよく又夏は日焼けして浅黒く、冬は暗くなるまで良く働いた。
母子家庭だった私は、この伯父の元から学校に通い出来の良い成績だけは要領見せて、どちらかと言うと『ひかりの国』という童話や物語の本が好きで外へもいかず読みふけるような子どもだった。でもさすがに夏の暑い日に部屋にこもるのは暑くて、愛犬のチビを 
家来に
 コークスの山に登っては山を壊したり、飛び跳ねて遊びにくれた。
月に一度はやってくる母は、いつも綺麗に着物を着こなし良い香りがしていた。
白いチビが黒いチビになり私の黒く汚れた足を洗いながら母はいつも、「伯父さん、叔母さんの言うことを聞かんと~」と情けなさそうな顔をしたっけ。。。
きっと『東京タワー』のなかの、まあくんの母親のように時には水商売に時にはお店を任されて、仕送りに励んでくれていたに違いない。男の子と女の子の違いなのか、時々は反抗的な子ども、そして母の前ではいつも良い子であろうと努力した。恥ずかしいくらいに私を連れて歩く時は、その成績の良さを自慢し身内にまで窘められていた。
あれは、高校卒業まじかな時で何だか家庭の環境から大学受験は無理と感じ取っていた私は、今までとは打って変わって勉強しなくなり1つの大学は受けて滑り、1つは当日すっぽかした。
がっかりすると思った母は、とある宗教に凝っていたので「高校入試は一生懸命拝んだけれど大学は、お母ちゃんはお金がないから拝まんかったんよ」と呟いた。
何で、私の成績のせいなのに宗教なんかのせいにして・・・・その時は母の答えが何となく気に入らない気がしたけれど、後年あれは、きっと滑ってしまった私をがっかりさせたくなくって、きっと自分が拝まなかったせいにしたのだと思う。
亡くなる数年前に自分のもとに呼び寄せて僅かに数年の介護だけをしたけれど、決してお金の面で甘えることのない私に、いつも「仕事はうまくいってるかい」と煩く聞いて信じている宗教に拝んでいるとばかり言う。男の子と女の子の違い、母には負担を掛けたくないと18歳で親元を離れ独立した私は、母の涙を見たことがなくって・・・・
でも会えば「仕事はうまくいってるかい??」と煩く聞いてわずらわしく返答していた私は、きっと今も変わらず勉学に??励むのは、あの頃中途半端に捨ててしまった夢と頑張っている自分を見せ続けていたいのかもしれないな・・・・・
『東京タワー』の中の主人公のように涙を流すことはないけれど、いつも心の片隅に母を無意識に思っていることに変わりなく、そんな思いが蘇る『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』

 映画の途中で友人がふっと聞く「東京タワー登ったことある??」
中学の卒業旅行で東京に行ったのは覚えているけれど、あの吸い込まれるように都会に出た経験のない私の『東京タワー』の想い出は定かでないけど・・・・
結局、受験と就職に挫折した18歳の春に伯父を亡くし1人独立しデザイン学校に通う私の元に、当時の担任が「助手の仕事が空いてるので母校に就職しない??」と声をかけて下さり、夜間のデザイン学校と仕事の2足の草鞋の生活を3年続けて、後1年で東京に行けるかもしれない矢先、芽の出ないデザインの勉強は頓挫の道を選んだけど。
映画の主人公の「まあくん」のように私は東京に行くこともなく怠惰で退屈な2重生活に終止符をうったけど、母はお金がなかったなどと言いながら本当は、私に大学に行って欲しかったのかも知れない・・・・
 映画の途中で私のポケットの携帯のバイブが響く。
相手先は知り合いのイラストレーターの「まあくん」思わずドラマの、まあくんからかしら??なんて思った不思議な一瞬。私の知り合いの「まあくん」も障害を乗り越えて、いつかイラスト作家で世に出て欲しい。












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